僕の家の近所には小さな公園がある。
砂場と遊具がひとつの本当にこじんまりした空間。
僕と彼女は毎日そこで、セブンで買ってきたアイスコーヒーを一緒に飲みながらお喋りするのを日課にしている。
そこには毎日清掃をする爺さんがいる。
自転車に清掃用具を一杯乗せて、小一時間ほど熱心に公園を掃除する。
自発的なのか、町内会の分担なのかはわからないが、それでも仕事をリタイアした人にとって掃除当番という役割があるのは張りのある生活のためには必要なことだろう、なんて彼女と話していた。
しかしある時、僕らは見てしまった。
爺さんが花壇の隅で立ちションベンしている後ろ姿を。
隅といっても、花壇は道路と公園の境目に作られており、壁も柵も無いので道路側からは丸見えになる。
「もしかしたら立ちションベンみたいな姿勢をしてるだけなのでは?」と頑張って擁護してみたが、ションベンを切るために手を震わせてチャックを上げる動きをしていたから間違いなく立ちションベンだった。
爺さんはそのまま手を洗わずに砂場で遊ぶ子供の頭を撫でていた。
と、そんなことがあって以降、僕と彼女は毎日その爺さんがいるかいないかを気にするようになった。いるときはずっと観察した。せめて非常事態としての立ちションベンだったのだと思いたかったから。
その思いが通じたのか、それ以降爺さんが立ちションベンをするところを見ることはなかった。
子供に絡みに行って、ママさんが微妙な表情で爺さんを煙たがっている光景は何度も見たがそんなのはどうでもいい。それはそれでウザいかもしれないけど社会のルールは破っていないから。
そして今朝。
いつものように彼女と一緒にセブンに向かう途中でその公園の入口にさしかかったとき、彼女が僕に公園を見るように促した。
「お爺さんの自転車があるけど、お爺さんがいないよ」と。
確かに爺さんはいなかったが、入口には壁になる一角があるから、それが死角になっているのかもしれないなと思いながら壁を通り過ぎた。
爺さんが花壇の隅で(それはつまり僕らの間近の真正面なのだが)立ちションベンをしていた。
チンコこそ社会の窓にギリギリ隠れていたが、尿は綺麗な放物線を描いていた。色はほぼ透明だった。
僕らは無表情を取り繕ってその場をやり過ごし、公園を過ぎたところで激論を交わした。
「お前が公園を見ろなんて言わなければ直視せずに済んだのに!」
「しょうがないじゃん自転車見つけちゃったんだから!」
「ていうかあいつやっぱ常習犯じゃねぇか!」
「せめて壁にかけなさいよ!」
「清掃するけど花壇にションベンかけるってどんな倫理観だよ!」
「あたしの誕生日は明日なのに、よりよってこの歳の最後の思い出がこれ?!」
僕らには共通の消したい過去が出来たが、それ故に絆も深まった。
なお、セブンでコーヒーを買って公園に戻ってきた頃には爺さんは帰っていた。「それなら我慢できなかったのか?」と思わざるを得なかった。
公園に入ると彼女が「あんなの見たところで飲食する気分になれない」と言いながらコーヒーをひとすすりした。こいつもこいつで狂っている。
そんなことがあった後、日暮里でコーヒーのワークショップに参加して、そのまま帰るのももったいなくてどうしようかなと考えたら、大崎の金春湯が緑茶のイベントをやっていることを思い出したので行くことにした。
僕は大崎の金春湯が大好きだ。
施設がやさしさといたわりに満たされているから。
お店の前にはお茶摘みの格好をしたマネキンがいた。かわいかったので記念にローアングルで写真を撮っておいた。
お茶イベントでは、お茶湯、ちゃんぷー(シャンプー)、ちゃうな(サウナ)、ほーじー牛乳(お茶割り牛乳)などを楽しむことができた。
お湯も水風呂もサウナもほのかなお茶の香りにつつまれていて究極的にリラックスできる空間だった。
ぜひ年一回でもいいから、定期的に開催してもらえたらなと思う。
湯上がりに休憩所でほーじー牛乳を飲んでいたら、フロントのお母さんが「貰い物でも良かったら」と地方土産の抹茶ブッセを下さった。
それほど常連というわけでもない僕にもこういう気配りをしてくれる。そんなところが大好きだから、僕はこれからも金春湯に通うし、皆に金春湯を広めていく。
こんなハートウォーミングな世界もある。
一方でクレイジーな世界もある。
それらが雑然かつ淡々と混ざり合うこの世の中は、たまらなく愛しいと言わざるを得ない。